○谷合正明君 公明党の谷合です。
今日は三人の参考人の先生方の皆さん、本当にありがとうございます。
まず、私も道州制に関連した質問をさせていただきたいと思います。
御承知のとおり、公明党も地域主権型道州制というのはもうマニフェストに掲げております。また、私が委員長を務めております公明党の青年委員会でも、二〇三〇年にはこれしっかりと地域主権型道州制の移行を目指していこうというところまで掲げておるんですね。
ただ、道州制自体、新しい議論でもなくて、よく文献調べてみますと、昭和二十年代後半、昭和三十年代後半の地方制度調査会でもこの種の議論がございました。当時から、国から地方への行政事務の再配分、あるいは地方財源確保のための税源移譲、それから地方間の不均衡を是正するための地方交付税の在り方、国の出先機関の地方への吸収、また大都市問題、まあ議論が、基本的に五十年たった今も同じような議論をしておるわけでございます。
ですから、百年河清を待つような議論にしてはいけないとは思いますし、先ほど堺屋先生が練りに練った五十年で、練りに練ったという話もありましたが、具体的にこの分権の姿をしっかりと移行していかなきゃならないんだと思っております。
それでは質問させていただきますが、三人の参考人の皆様に共通の質問でございます。それは、ナショナルミニマムについてどう考えるのかということであります。特に、社会保障、年金、それから生活保護、医療保険などのナショナルミニマムについて、国、県、あるいはこれは道州、広域連合ととらえていいかもしれませんが、そして基礎自治体、それぞれの役割と責任はどうあるべきなのかと。また、ナショナルミニマムについて、国ではなくて道州が主体となった、あるいは広域連合が主体となったナショナルミニマムというものはあるのかと。ナショナルミニマムの定義付けの問題もあるかもしれませんが、この辺りについての御見解をお伺いしたいと思います。
○参考人(堺屋太一君) 今御質問がございました道州制についての議論は、以前の議論、昭和三十年代、四十年代の議論と、現在言われている、公明党さんがお出しになっていただいている道州制の議論とは全く違うものであります。
以前の道州制の議論というのは、府県の境が小さ過ぎるからこれを合併しようというのでございました。したがいまして、例えば近畿地方では、近畿二府六県、二府四県を合併する案もあれば、大阪、奈良、和歌山と三県だけ合併する案もありました。どのように都道府県の分け方を考えるかということが当時の主題でありました。
今、私たち、私たちと言うたらおかしいですが、公明党さんやみんなの党さんがお出しになっている、また多くの政党が御賛成になっているのは地域主権型道州制でございまして、まず国の制度を変えることが大事なんです。ここがポイントなんですね。国が今やっている多くの制度、特に、農林水産省であるとか国土交通省であるとか文部科学省であるとか経済産業省であるとか、そういう各住民生活に密着したところを国がやっている、これを道州がやることにすると。そして、国の制度は、私の図にもありますように、国は国だけの、外交であるとか防衛であるとか通貨の発行であるとかマクロ経済だとか通商交渉であるとか、これだけに限定すると。だから、今回の道州制の一番の問題は、道州を合併することよりも国を改革することが重要なんですね。
先ほどの財政の問題の一番のポイントは、国の集めたのをどう分けるんじゃなしに、それぞれが自分で財源をつくる、したがって、問題は、現在の国債をどう分けるかによって決定的に変わってくると、こういうところにあるわけです。
そういう立場でこの道州制を考えますと、やはりナショナルミニマム、ナショナルミニマムという考え方自身が中央集権のがんじがらめの考え方でございまして、むしろ各地域でそのミニマムが違ってもいいのではないかという気がいたします。例えば外国でございますと、最低賃金制度は地域によって相当に格差がございます。それは、物価も違えば生活様式も違います。同じように、物価の水準だけではなしに、同じようにタクシーに乗っても、東京は二千円掛かるところを地方へ行ったら八百円で行けるというところもあります。そういうような、それぞれの地域に密着したものをつくると。
それからもう一つは、国の制度として、この高度成長の間に日本の国を中央集権に完全につくり上げたんですね。例えば報道に関して、情報発信に関しては東京都に集中するということが決めました。したがって、雑誌を発行するのにも、全部東京へ一回持ってこなければ発行できない。日販、トーハンを東京に集めまして、大阪で印刷した本を尼崎で売るにも東京へ持ってこなきゃいけない。それから、テレビも、全部キー局は東京に置かねばならない。金融機関、金融機関なんかも、全部東京へ入れるためにどれほどの努力を財務省、大蔵省がしてきたか。銀行協会をつくって、銀行協会の会長は東京に本店がなければなれない。住友銀行と三和銀行はしない。あるいは、日本生命は東京へ移転しろと。どういう圧力を掛けていたか。その結果、東京に集中した。証券取引所も同様でございます。貿易取引も同様でございます。そういうことをまずやめようと。だから、ナショナルミニマムよりも地域マキシマムをいかに育てるかということが大事だろうと思うんですね。
福祉であるとかあるいは生活保護であるとか、そういうものにつきましては、各地域、道州がやはりうちの地域はこれだけの最低保障はしますよというのを決定すべきだと思います。そう言いますと非常に不安を感じる人がいるんですけれども、それは、中央の官庁が決めたら安心だけれども地方のお役人が決めたら不安だという中央官庁優先主義があるんですね。私は、地方のお役人、道州のお役人が道州の議会とミニマムを決めていただければ、決してそこに住んでいる人をおろそかにするような基準は作らないと思っています。それぐらいの皆さん常識を持ち、愛郷心を持ち、人間愛を持っていただいていると、そう信じています。
だから、国でなきゃいかぬということは一切ないと思うんですね。問題はだから財源をどうするかでございますが、先ほど申しましたような財源調整をいたしますと今よりもはるかに偏りがなくなる、私どもの試算ではそのようになっておりますので、うまくいくんではないかと期待しています。
ただ、問題は、やはり八百兆円のうちで相当数を国が持ち、道州も持たなきゃいけない。現在財政を悪くしてしまったことのツケは、国にも各道州にも残ってくるだろうと。これはやむを得ないことで、いかにしていくかというのは別途財政問題として考える必要があろうとは思いますが、その点を解決いたしますれば、ナショナルミニマム、人々の基本的人権は守れるだろうと。もしそれを守らないようなところがあれば、勧告をするような制度、これは国というよりも道州会議で勧告をするような制度をつくればいいのではないかと考えております。
○参考人(井戸敏三君) 私は、いずれにしましても、道州制ができることを前提とするようなコメントは絶対にしないと、こう思っておりますので、道州にどんな役割をセーフティーネットで果たせられるかとお聞きいただいても、これには答えを持ち合わせておりません。道州制をつくること自身が問題だからなんです。
それで、広域連合としては、広域連合というよりも、セーフティーネットを張るということは、これは重要なことだと思っているんですね。例えば、年金というようなものを道州単位とか都道府県単位で独自につくらせるか、これはちょっと難しいんじゃないんでしょうか、制度としては。しかし、徴収だとか、どういう形で加入を進めるかとか、そういう意味での役割分担というのは当然にあってしかるべきで、年金は全部国の仕事だから全部国の機関でなくちゃやっちゃいけないんだみたいな縦割り主義を徹底させてしまっているところに今問題が生じてしまっているのではないでしょうか。
例えば兵庫県でいいますと、西宮に事務所があるんですが、その管轄は丹波篠山まで入っています。丹波篠山の人が西宮の事務所まで出かけていって年金の自分の受給手続をしなきゃいけない。物すごい複雑なんです。私も六十五になったとき、もう参りました。こんなことが現に行われているということが、実際問題としておかしいんですね。手続なんかは市町村の窓口でやれるようにしてあげたらいいんです。そういう意味でのセーフティーネットの張り方の仕掛けが余りにも縦割り過ぎているということをどういうふうに考えるかということを、もっともっと議論していただきたいと思います。それは社会保障の制度に特に目立つわけです。社会保障の制度に特に目立つわけです。
それから、私は、やはり国はセーフティーネットの仕掛け自身に手を抜いてしまってはいけない。どんな分権社会が来ても、国としてはセーフティーネットに対しては責任を持たなきゃいけない。責任を持つ分野をどこまで持つかということをきちっと決める必要はありますが、それ以外のことは任せますが、持つべき分野というのはきちっとしておく必要があるのではないか。年金にしても医療にしても、介護保険の骨格的な仕掛けというのは持たなきゃいけない。
ただ、先ほど言いましたように、融合型になり過ぎていますので、制度の運用が国の責任なのか、実施主体の責任なのか、それを助成している都道府県の責任なのかみたいなところが曖昧にされてしまっているところが問題がある。もっと責任分野というのを明確にしていく必要があるのではないか、このように考えております。
アメリカ合衆国でも、国全体としてのセーフティーネットの仕掛けを持とうとしてオバマは苦労しているわけですね、医療制度などについては。そういう意味で、そこを逃げてはいけないのではないか、そのように思います。
ただ、一律どうすればいいのか。私は実を言うと、仕掛けのつくり方として、国は枠組み法を作る、その枠組み法に従って各都道府県なり市町村が自分の条例でもって具体の実施条例を作っていく、そういう役割分担をすることによって随分違ってくるのではないか、そのように思っています。上書き権を認めてもいいし横出し権認めてもいい、それはそれなりに自分の責任でやれよ、しかし、枠組みとしては、セーフティーネットに関しては、国は責任を持った枠組みをきちっとつくる、それを混合型にしない、このことが大事なのではないか、こう思っています。
○参考人(浅野史郎君) 社会保障の問題、これはナショナルミニマムとは別に、具体的に言うと、年金、医療保険、介護保険です。いずれも保険です、これ。ですから、保険ですから、それどこが責任というよりも、母数の大きい方が安定するわけですね。そして、だから国がやるというのが適当で、各県にやるとか道州で道州ごとにやるというのは保険制度としては余り賢いやり方ではないということで、必然的にそれは国でやるということになるというふうに思っています。
それから、これもナショナルミニマムじゃないんですけれども、例えば教育の機会均等なんというのは若干ちょっとナショナルミニマムに似ていると思うんですけれども、私が知事時代に知事会で三位一体改革、そこの中で特に問題になったのは義務教育の国庫負担の廃止、二兆五千億なんですね。それをめぐって実は知事会の中、一つにはまとまりませんでした。思い出しますけれども、文部省出身の加戸愛媛県知事とこういうふうにやって、浅野さんとかと言ってやり合って、これを廃止するというのに賛成した人の名前は全部書きますと、歴史に名前を残しますというようなことまで言われて論争したんです。
そのときに、私の論点はどういうことかというと、加戸知事がおっしゃったのは、教育というのはまず機会均等もあるし絶対やらなくちゃいけないんだと。つまり、だからそれは国庫負担というのがあるのが担保しているというふうに言うんですけれども、本当にそうでしょうかと。
例えば、教育だけじゃないんですけれども、国庫負担がないというんだったら、多分義務教育のいろんなシステムというかその内容も各県なりが決めるということになると思います。そのときに、じゃ、宮城県は四十人学級でやると、山形県は三十人学級でやるというようなことになるとすると、必ず言われるのは、議会で、知事、山形県は三十人学級でやっているんですよと、何で宮城県は四十人学級にしないんだとか、そのほか、例えば教育ということの内容についてほかの県と比べられるわけです。それを、大事な問題であれば、ないがしろにしてというか、それでえへへと笑ってはいられないと、これは政治的な現実ですね。
だから、これは教育の問題に限りません。いろんな施策について、特に隣の県、福島県にだけは負けたくないと、兵庫県には負けてもとかというのがあるから、そういうとき比較されるということになるんです。それは結果的にナショナルミニマムというか、自分のところだけいろんな行政レベルを低くするということを許さないというか、政治メカニズムというほど大げさなものではありませんけれども、そういうことは実際知事をやっていて何回もそれは感じて、かなり意識して施策を作る、予算を作るというときに、ほかの県の動向とかいうようなことで、別に国がこれだけの基準でやれと言われるより前に、そこのところで働いているということが実際の中での地方自治のありようだと思っています。