報道によると死者は推定で23万人を超え、家を失った住民が120万人を超えると言われている。
視察をした2月12日、13日は、震災後ちょうど1カ月目であった。緊急ステージから復興ステージに差し掛かっていた時の訪問だった。しかしながら、初めて見たポルトープランス市内の状況は、とくに建物の崩壊が激しく、町全体が壊滅した感があった。写真や記事では伝えきれないほどの惨状で、現地調査をしてはじめて震災の凄まじさを実感した。被災民のテント村の状況は、私がこれまで見てきたアンゴラ、スーダン、アフガン、ソマリアの各難民・国内避難民キャンプよりはるかにひどい状況であり、もともと最貧国であったがゆえに町全体がスラム化したような印象を受けた。
医療については、地震直後の外傷や重症患者は減り、慢性疾患が増えてきた。ただし、慢性疾患と言っても不衛生なテント生活に伴う下痢などの疾患もあり、一概に地震にともなう医療ニーズがないとは言えない。傷の手当てなどの応急処置が不十分であったりし、患部が化膿するといった二次的な疾患もある。感染症などのアウトブレークは起きていなかったが、町の衛生状態は悪く、3~4月から始まる雨期には相当の注意が必要である。地震前から医療サービスは不十分であったうえに、地震による倒壊で診療所や病院が機能していない。
水については、給水車により徐々に確保されている模様。ただし水道は被害の少ない住宅地域でも不通状態。市内では国境なき医師団などの借り上げた給水車が活動するのを目撃した。日赤の診療所に隣接する被災民のテント村は人口1万5千人に対し、当初トイレが1基しかなかった。現在は30基あるとのことであるが、圧倒的に不足している。ゴミは街中散乱している。路上のがれきは除去されているが、住宅のがれきはそのままの状態である。衛生については、もともとのレベルが著しく悪く、震災後1カ月でも改善されていない。
食糧は最低限の配給が援助機関によって支援されている。テントに暮らす住民に聞くと食糧の確保が一番困っているとの回答。ガソリンスタンドは再開されている。低所得者層はまきなどの燃料が主体である。電気は回復していないので、市中心部でも夜は真っ暗である。発電機がある住宅やホテルが電気を確保できている。市内の信号は数年前に太陽光発電システムを取り入れたので停電していない。
住宅は、もっとも緊急性のあるニーズである。雨露をしのげるビニールシートが必要。とくに雨期の前に仮設住宅が必要。ポルトープランスは小高い山に囲まれており平地は少ない。そうした傾斜地に無数の住宅が密集し、かつ狭い家の中に何人も住んでいた状況であったことが被害を拡大させた。重機が入り込めるような場所ではなく、短期間で整地、再建するのはほぼ不可能。さらに地震後地方に避難した住民が、援助物資の集中するポルトープランスに再び流入しており、難民キャンプの人口が膨れ上がっている。
治安については、一部報道されているような暴徒の存在は特定できなかった。むしろ人々の表情からは余裕や平穏さが感じられたくらい。12日から3日間は政府が震災後1ヶ月後の喪に服す期間として定めたこともあり、教会でお祈りを捧げるハイチ人が多く、比較的に穏やかだったのではないかとも言われている。もともと政府の行政サービスが皆無であった状況下で生活していた貧困層は、不幸にもこうした状況にも耐えている。自衛隊やNGOなどの援助スタッフが、治安悪化により危険な目にあったという報告は聞かなかった。
道路などの交通インフラについては、車両や人、物資の移動は隣国のドミニカから陸路が主流であったが、ドミニカとポルトープランス間を結ぶ国連機や民間機が運航を始めている。2月中旬にはハイチとアメリカのマイアミやNYなどを結ぶ長距離の民間機も再開するとのこと。ハイチ国内の幹線道路は一部地震により亀裂がはいるなどしたが、基本的にはがれきの除去も進み、通行可能である。港は自衛隊の護衛艦が接岸するには安全が確認されていない。
外国人の生活について、ホテルの確保は難しい。倒壊を免れたホテルには大使館員やNGOスタッフ、マスコミが長期で借り上げている。食事は一部のレストランやホテルで再開されている。露天商なども再開。今回の調査チームは、前駐日大使の私邸に宿泊させてもらい、食事も確保できたのが幸い。日本のNGOスタッフも長期でお世話になっている。自衛隊や赤十字などは自前のベースキャンプで寝泊まりしている。蚊帳を使っているが蚊には多くの人が悩まされている。
(谷あい)
震災から1ヶ月後 ハイチの現状