○谷合正明君 公明党の谷合正明です。
参考人の先生の皆様、本当に本日はありがとうございます。
私の方から、まず山本参考人に質問をさせていただきます。
まず、政府案でございますが、私たち公明党は、現行の教育基本法というのは、その理念をまず高く評価していると。しかしながら、六十年近く変わってこなかった、その間、進む時代の変化というものは大きいと、特に学ぶ側の立場を尊重するような生涯学習、こういった新しい項目というものを追加すべきだと、つまり足らざるものを加えるべきだというスタンスに立ってまいりました。
そこで、今回、政府案では、生涯学習を始めとしまして、幼児学習等、八項目が新たに追加されます。そのことにつきましての評価と、それを具体化させていく上での課題をまず参考人、お聞かせください。よろしくお願いします。
○参考人(山本恒夫君) 今の点ですが、今お話があったように、本当に六十年、その間に新たな課題、問題が出てまいりました。六十年前に教育基本法を検討した方々のお話を伺っていますと、やはりその時代の制約があっていかんともし難かったというのがたくさんあったと、入れられなかったということがありました。それは占領下だからということでございました。その話は本当に、我々聞いていても大変だったんだなと思うわけです。
しかし、それはそれといたしまして、その後、時代の変化で今のようなことがいろいろ出てきていると。それについても、やはり機が熟さないとこういうものに入れることはできないだろうということは重々承知しております。
しかし、今やそういう時期に来ているのではないかと。学校教育のいろいろな問題、それから幼児教育の問題、さらに生涯学習云々ということは繰り返しませんけれども、社会の変化の激しい中で、もう生涯にわたって学習していかないとどうにもならないところまで来ているわけですね。それをやらないと、日本社会これからどうなるんだという危惧がいろいろあるものですから、我々としては、今回新たに入れるということで出されているこの案につきましては全面的に賛成をいたしております。
それをあとどうしたらいいのかということになるんですけども、教育基本法に入っても、それは理念ですから具体的にはなりません。それについては必要に応じてそれぞれの教育領域の法律を改正していただくということが必要だろうと思いますし、それはすぐ検討されるだろうと思います。
しかし、それはそれで結構なんですけども、ちょっと申し上げますと、やっぱりいろいろなところで言われることは、最後は、教育基本法に入っているのかと、教育基本法にちゃんとそれが入れられているのかと。入れられていなければそんな重要なんじゃないじゃないかと言われてしまうということがあるものですから、今回このような形にしていただけるというのは日本の国にとってもいいことではないかと思います。
○谷合正明君 時代の変化もまああったわけでありますけれども、私は大きく二つあるんじゃないかなと。一つが人口減少、そしてグローバル化だと思っております。
まず、先ほどの質問と関連するのかもしれませんが、世取山参考人に質問させていただきます。
私、グローバル化の中で、具体的に現実問題としてある一部の自治体で起きているのが定住外国人に対する教育の問題でございます。もう説明するまでもございません。日系ブラジル人等の増加があるわけであります。しかしながら、この政府案の中には明確には書いておりません。
私は、その条約と法律のはざまの中、こういう問題がこれから先、日本の将来、更に顕著な問題になっていくんではないかと思っているわけでございますが、今後この外国人の教育問題についてどう取り組んでいくべきなのか、あるいは、その基本法という、どういうふうに位置付けていくべきなのかについてお伺いさせていただきます。
○参考人(世取山洋介君) これは、端的に言いますと基本法で対応すべき問題だというふうに思います。
なぜならば、差別の禁止原則及び差別的状態を是正する国家の義務と直接かかわっているからです。その点、民主党案は外国人の教育に対しても配慮が払われているんですけれども、政府案では残念ながらそのような配慮が見えないというのは正直に指摘すべきことだと思いますし、そのことが書かれてないということについて、やはり政府はより深刻に考えるべきだというふうに思います。
国際人権条約でいえば、ポイントになるのは、やはり母語による教育を選べば母語による教育を提供するというところが最大のポイントでして、一体、その母語で教育を受ける権利を認めると。で、その上で、漸進的にどういう制度を整備していくのかということについてやはり国家に対して義務付けを明確にすべきだし、そうであれば教育振興基本計画なるものは多少たりとも意味があるというふうに思っています。
そういう意味では、政府案も基本法に書き込むべきことを書き込んでないという意味ではまだまだ見直す余地があるわけですので、そういう見直しをしていただければ本当にうれしいと思います。
○谷合正明君 続きまして、杉谷参考人と馬居参考人に伺います。
それは愛国心ということでございます。我が党は、そもそも教育というのは国家のためという手段ではなくて、そもそも人格を形成する目的であるという観点から、戦前の軍国主義、国家主義を想起させるような法案であってはならないと、そのように強く訴えてまいりました。その結果として、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに云々という表現になった、愛する態度を養うという表現になったわけでございます。
その中に、国という意味で、国には三要素あると。国土、国民、そして統治機構だと。で、統治機構は省くんだと、ここは共通理解になった。さらには、政府答弁におきましても、総理大臣の方から、統治機構というのは含まないということに明確になったわけでございますが、そのことの意義、意味合いといったものはどういうものなのか。ここを杉谷参考人と馬居参考人に聞かせていただきたいと思います。
○参考人(杉谷義純君) 先ほど来御意見も出たと思うんですが、国民主権という今の時代から考えると、国というものが国民と別の存在、離れた存在でなくて、国民そのものがまた国であるということかと思いますので、もちろん、統治機構とかそういう機構的なものは、これは非常に無機的なものでございまして、愛する愛さないより、そこから出てくる国民全体の文化、そういうものを含めてを愛するということで、まあ戦前、一時大変な不幸な時期があったことにすべて重点を置いて、だからいけないという判断でなくて、国民主権がきちんと行われるような国であり社会である、そういう点を踏まえての基本法でなければ、幾らこの法律を良くしましてもそれは運用できないということでございますから、そういう観点に立って国を愛する。
ただ、私、態度と心ということで、宗教者でございますから、やはり行、行動と心は一致をしていないとそれは人格形成と言えません。先ほど、態度はちょっとごまかすことはできる、それはごまかすという心が態度をつくっているんで、やはりこれは心なんですね。ですから、これはまあいろんな御事情があってたくさん議論がされたということも承知しておりますので、私はそれをいい悪いというようなことは申し上げませんが、ただ、やはりこれは自然に心という方がより広く国民に納得がいくのではないかというふうに率直に考えます。
○参考人(馬居政幸君) 今のところから、私の話を出していただいたんで。
私は、杉谷参考人さんとかあるいは小川参考人さんのように、自分で教育を演出している方が心をはぐくむと言うことを否定しているわけではありません。国家が法によって心を記すということに対して私は賛成できないというんです。
態度は形が見えます。それから、この態度をじゃプラスに評価するかマイナスに評価は議論することができますが、確かに今言われたように心がそれを表すわけですが、心は現実には評価できないですよね。評価しないことが大事だとよく言うけれども、じゃ評価しないものを何で法で決めるのだという。実際にその効果が見えないわけですから。
心は最後のとりでであって、学校の先生が子供たちを教える上で心に働き掛ける、これはあってしかるべきです。しかし、法がその心を、愛国心を教えなきゃならないというふうに書くことについては、私は、その心が何なのかということを具体的に示さない限りは賛否を出すことができないという意味で、同時に、たとえその心がこれこれしかじかの心ですよと言ったとしても、態度は目に見えますから、その態度を取るか取らないかによって判断できますが、取らないことをマイナスの場合も、取ることをプラスと見る場合、逆の場合も考えられますが、心の場合は実際にそうなのかどうかというのはだれも判断できないわけです。だれも判断できないものを何で法に書くんだという部分が。最後の国を愛するということも、私は愛したくないということを許容することを前提にして、その部分で態度で止めたというふうに私は理解したいと思っています。
その上で、だから、あくまでこれは教育基本法という法による論議であって、教育の原理を言っているわけではないと、言わば。
それから、統治機構の問題を取り出すことによって今言った論議が明確になると。
言い換えれば統治機構という、先ほど言われた、非常に、見える具体的なものが何をするかということを、それに対して愛するか愛さないかではないんだということを引き出すことによって、と同時に、その統治機構がこの案を提案しているわけですから、提案した以上は民が国を愛せるようにしなければならない、そうしますよというふうに言っていると同じことだなと。民の方には拒否する権利があると、しかし統治機構の方には民に対してそう思ってもらえるような政治を、あるいは統治をしていかなきゃならない。
そこで反対する方たちと一番違うところは、戦前と今は全く違うわけで、何が一番違うか。一番見やすいのは、それでデータを用意したんですが、戦前の場合、大学に行っている人は一%という時代がありました。今は七〇%を超えるわけです。日々、毎日、首相は多分世論調査の結果を気にしていると思います。来年の参議院で倒れるかどうかについて、この論議があるみたいにも聞きます。
言い換えると、今、国民の意思から離れて政治は絶対に動かないはずです。そういう状況の中において何が課題なのかというのを出してきているわけであって、その中において統治機構が引き出されることによって、統治機構を言わば判断できる対象として、一回先ほど言った、私の言う循環構造ですね。民が何を責任を取るか。統治機構を選ぶのは民の責任なわけですから、その統治機構が何を出してくるか、出してくることによって民はそれを判断できるんではないかということが今回の改正案によって可能になったというふうに思います。
最後に、私は、教育基本法はそんなに立派なものではないと思っています。いや、そんなに立派なものにしちゃいかぬと思っています。
足らなかったらまた増やせばいいわけで、時代はどんどん変わっていくわけですので、五十年間もたすようなことを考えたら何もできないと思います。そんなことより、今すぐやらなきゃいかぬことが一杯あるわけです。ですから、そのために必要なものを取りあえずはまずやるというところから出発していいんじゃないかと思っております。
○谷合正明君 ありがとうございました。
次に、家庭教育、そして幼児教育ですね、十条、十一条に書かれております、政府案のものでございますが。小川参考人と成嶋参考人にお伺いいたします。
現実の社会問題として児童虐待というものが、これは非常に大きな問題としてクローズアップされております。児童相談所への相談件数だけでも平成十六年から三万件を超えるような時代に入っております。第十条の家庭教育の一項の方に父母の第一義的責任がうたわれているわけでございます。
そこで、この家庭教育、これが加わったことが現実すぐに結び付くものではございませんが、この加わったことの評価、そしてまた課題ということをお聞かせいただければと思います。
○参考人(小川義男君) これが加わったことは、とにかくすばらしいと思います。
それで、家庭教育に問題があるのは、私は、実は家庭の問題というよりは、私のように長く教壇に立ってきた者にとっては、我々の育てた弟子が全部親になっているわけですから、その点では、家庭が悪いというのはおれたちが悪かったということだというふうに思っているんですね。その中で本当に愛情を持てる人間を育てられたか。
それから、やっぱり人間にとって非常に大事なものとして自己抑制力の育成ですね。これを、児童の自主性ということは非常に大事で、デューイ先生が言っておられるように、子供は教育の主体であって客体ではないと。これが重要なんだけれども、発達段階ということを我々忘れなかったか、乳飲み子はいかにして教育の主体たり得るのか。
小学校一年生、二年生、三年生は、もう先生にくっ付いて離れない存在ですね。この時期に教育の主体であれと言っても無理だと、やっぱりその発達段階に応じて教えるべきは教え込んでいくと、そして自我が芽生えるに従って過不足ないスピードで後退していくということが教育において非常に重要だと。そのことによって適度の自己抑制力というものを我が国の教育は行ってきたんだけれども、この六十年、いささかその辺に落ち度があったのでないか。だから、家庭を責められたら、五十七年も前に教壇に立った私としては自分が責められたように思うと。だから、学校教育をいかに立て直すかということを真剣に考えにゃならぬ。と同時に、さはさりながら、本当は我々の責任かもしらぬけど、家庭に教育の第一義的責任があるんですよというふうに教育基本法で明言していただくと、やっぱりこのことの、各親たちに与える自覚というのはやっぱり強まるのでないかと。
もう一つは、やっぱりマスメディアなんかが学校教育の我々の落ち度と別に、マスメディアそのものが家庭教育を荒廃させるようなドラマとかそういうものも描いてきたと。国民全体で家庭教育の荒廃、学校教育の荒廃というものについて深く考えてみるその大きな契機になるのでないかと思います。
○参考人(成嶋隆君) まず、教育における親と子の関係についての、私がどのように考えているかということを申し上げます。
教育の最大の目的は、子供が人間的に成長、発達する、それを権利として保障するということですね。法学的な言葉で言いますと、学習権という考え方があるわけですけれども、子供が未来においてその人間性を開花できるような、そういった教育を施すということが教育の最大の目的であるというふうに考えています。その子供の学習権を保障する第一次的な責務を担うのは、これはもう自然的な関係によって親であることは間違いありません。
したがいまして、親は我が子に対してその学習権を保障する責務を担うわけでありますけれども、それをほかの市民との関係についていいますと、そのような親としての義務を言わば優先的に履行するといったような、そういう立場にあると思います。私は、親義務の優先的履行というのは一つの権利であるというふうに考えているわけですね。その親義務を優先的に履行する権利が、親の教育権、あるいはその親の教育の自由の基本になるというふうに考えております。したがいまして、親は子供の学習権を保障するためにこそ、教育に対する発言権とか要求権を持つことになります。例えば、いじめが起きている場合に学校に対してそのいじめの事情について報告を求めるとか、そういったことがその親の権利として認められる必要があります。
そういった観点から政府案の十条を見ますと、ここには、親が子の教育について第一義的な責任を有するというふうに規定されているわけですけれども、それに見合った権利がここにはないんですね、親の権利が。親が子供に対して、子供の教育について第一義的な責任を負う、その反面として当然親の権利というものがあるはずであります。そのことがこの条文には落ちているというところが、この十条の問題点であるように思います。
○谷合正明君 馬居参考人にお尋ねします。
今の質問と同じなんですが、家庭教育の十条一項、二項と、第一義的な責任は父母にあると、「努めるものとする。」、第二項の方で、国、地方公共団体云々で「努めなければならない。」というふうに動詞は変わっているわけでありますけれども、今、小川参考人、そして成嶋参考人の方からも意見がございましたが、それらを踏まえて、この家庭教育という、入ったことがどういう意味を持つのか、そしてまた、幼児学習というのも新たに加わっております。この幼児学習も非常に重要な意味があると思っております。
先ほど、馬居参考人は、今は本当に人口減少時代なんだと、それに合った対応をしていかなければならないと言われておりますが、この人口減少時代に対して、政府案というのはどういう役割を果たしていくんだろうかと、その辺お尋ねしたいと思います。
○参考人(馬居政幸君) まず、私が研究者となったスタートの時点では、多分、成嶋参考人とほとんど変わらない考え方を持っていたと思います。
ただ、実際の家庭、地域、学校の現場というところで何が起こっているかという問題を考えていくときに、児童虐待ということが今大きな話題になっておりますが、それだけではなく、育児不安もあれば、すなわち親が子を育てること自体が非常に大きな負担の世界に入ってきているという、言い換えると、子が親になるプロセスがほとんど準備されないままに親にならざるを得ず、同時に親が親として生きるだけの支えがない中で親は子を育てなければならないという状況に陥る人たちがたくさんいるということですね。
言い換えると、少子化ということは、これは子供が少ないんじゃなくて親が少ないということであり、親が更に支え、昔、親はどうだったという話をよくします。しかし、昔の親が置かれた状況と今の親が置かれている状況は時間的にも空間的にも全く違うわけですね。したがって、その人たちをどうやって支えるかということを考えたときに、しかし一方で、入ってはならない部分と入っていい部分をやはりつくっておかなきゃならない。
そういう意味で、私は、第一義的責任を親に置くというふうに記したことは、権利義務関係の問題は確かにあるとは思いますけれども、非常に大事なことだとは思っています。基本的には子供は親が育てるんだということを原則にすることを前提にすべてが入る。言い換えれば、逆に言うと、親として子に対して積極的な働き掛けができない者に対しては積極的に公権力がかかわりますよということを宣言する、逆に親としてやられている人に対しては公権力は支えるだけに回りますよという部分の歯止めにもなるという部分で、現在の世界においては書かなきゃならないだろうと。
もう一つ、その二の方において、ただし、「努めるものとする。」ということは、してほしいという意味と私は取りました、しなさいではなくて。逆に、自治体の方は「努めなければならない。」と、これが実質的な権利を保障するものとして機能することは可能だと思っています。
その上で、幼児期の教育ということになりますけれども、私はこの部分をあえて言えば拡大解釈したいんですが、今人口減少の話をしていただきましたけれども、この基本法を作る上でどれだけ人口減少のことが深刻に考えられたのかという、子供のことが今どういう状況になっているのかということを本当にどれだけ考えられたのかということは正直疑問に思います。
その意味で、確かに家庭をつくれる親を育てていかなきゃならないという部分もあるんですが、そのことにこれはありますけれども、その立派な親をつくろうとする行為が親になりたくない人間をつくることに跳ね返っているという事実もあるわけです。言い換えれば、若い男女が親になることを妨げる高いハードルになりがちであるということも今の現実だと思います。すなわち、親はかくあるべきだということを積極的に出すことによって、そんな親ならば自分はできないという選択肢を取らざるを得ないような、それがあの三人に一人が未婚だという世界をつくり出す、すなわち、男がちゃんと子育てできなければ女はやらないという、結婚しないという選択をしてしまうという。
そういう世の中において、ここは、「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」云々で、「その振興に努めなければならない。」、この文章をそのまますっきり読めば、子供は親がたとえ放棄しても私たちが育てますよ、社会が育てますよというふうに、言い換えると、「幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。」ですから、ここを広げていけば、親は産んでくれさえすればいい、あとは何とか社会の方でバックアップしていきますということまで考える段階までの道をここは開いているんではないかというふうに、あえて言えば私は思っております。
○谷合正明君 ありがとうございました。
終わります。